イントロダクション
ドキュメンタリー映画 「異境の中の故郷」
監督 大川景子
リービ英雄は日本語を母語とせず育ちながら、現在は日本語で最も豊かな創作活動を続けている日本文学作家である。2013年3月、台湾の東海大学シンポジウムに招聘されたことがきっかけで、リービは52年ぶりにその場所を訪れることを決意する。その旅に詩人の管啓次郎、映像作家の大川景子、作家の温又柔が同行し出来上がったドキュメンタリー作品。
「―その島は自分の国ではない、とそこを離れてからよく分かった。しかし、自分の家はどこにあるのか、あるいはどこにあったか、と聞かれたら、その島だと答えてしまう。(中略)しかし、「自分の家」のあった現実の場所をもう一度訪ねるということはなかった。(中略)すぐそこの島へ渡ることを、僕は長い間躊躇していた。躊躇していた理由は、すぐれて非政治的だった。ぼくの家は他人の家になった。そしてぼくをつつんでいた風土そのものは消えていたはずだ。ぼくの家があった島は、風土を消してしまうほどの経済発展をとげてしまった、ということをよく承知していた。ぼくの家があった島は、町並みが何十年も変わらない西洋と違って、家も家並みも否応なしに短期間ですっかり衣替えする東アジアにあるからだ。」 リービ英雄
(イーリャ・フォルモーサ――四十三年ぶりの台湾『越境の声』岩波書店、2007年より)
作品紹介
過去に光 未来の創作を予感 (小説家)温又柔
(2014年1月14日 読売新聞掲載エッセイより)
米国生まれのリービ英雄は日本語で創作する作家だ。リービは少年時代を台湾・台中で送った。
家では、英語をはじめ、外交官の父を訪ねてくる国民党の老将軍や使用人の中国語が飛び交い、高い塀の外では、台湾(閩南)語が響くという環境だった。以前の家主が残した古い雑誌に印刷された文字や、レコードから流れだす歌声をとおして、日本語と触れ合うこともあった。その家は「模範郷」と呼ばれる旧日本人街にあった。日本人が台湾を去って、まだ数年。交錯する複数の言語の響きを含み込む1950年代の台中の風土にリービ少年は包まれていた。両親の別れによって「模範郷」を離れたとき、彼は11歳だった。
後に日本や中国へ関心が向くようになっても、台中には寄らなかった。記憶の中の風景が変わり果ててしまった現実を直視するのが怖かったのだ。「ぼくの家があった島は、(……)家も家並も否応なしに短期間ですっかり衣替をする東アジアに在るのだから」。
もはんきょう、ではなく、モーファンシャン。
「異境の中の原風景」を日本語ではなくましてや英語でもなく中国語でリービは呼ぶ。
台湾の東海大学シンポジウムに招聘されたことがきっかけで、2013年3月、リービ英雄は台中を訪れることを決意する。この旅に、詩人の管啓次郎氏と私、映像作家の大川景子氏が同行し、ドキュメンタリー作品『異境の中の故郷 作家リービ英雄52年ぶりの台中再訪』は出来上がった。
旅の間、リービは10歳の少年のようにはしゃぎながらも、時折、神経質な表情をのぞかせる。3月でも充分に眩い亜熱帯の光の中、私は感じる。これは、単なる追憶の旅ではない。リービの「現在」の背後に控える「過去」を、台中の陽光のもと、あらわにすることで、「未来」に書かれるだろう彼の「日本語」を予感する旅なのだ。
大川景子の作品には、私たちのあの旅が、言語によって表現される以前の、剥き出しの姿で、輝きを放ちながら生きている。